おばけ

おばけについての情報

このページは 2007年 09月 16日 16時49分16秒に巡回更新されました。
 死体恐怖症

【 37】 OBAKE's PAGE

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[引用サイト]  http://www.oyikakanat.com/obake.html

「おばけ」は、絵本作家の田中清代と仲間たちによるウクレレ中心の弦楽ユニットです。メンバーは田中清代(歌、ウクレレ)、植村昌之(ウクレレ、ギター)、宮崎響子(バイオリン、コーラス)、山本海(ウクレレ、ギター)の4人。2001年に展覧会オープニングを中心にライブ開始。2002年5月以来ライブをお休みしていましたが、2003年7月2日PENGUIN HOUSEにて約1年ぶりに再開し、新しい曲も増えてほのぼのと展開。2004年には宮崎響子が多忙のためメンバーは3人になりました。(現在作曲のため再びライブ活動をお休みしています)
高円寺PENGUIN HOUSEにて行われました、「第一回ウクレレは歌う」は盛況&好評のうちに幕を閉じました。
出演者は今泉孝文、青木孝夫、あごの正体、植村昌之、さいころ、スッパマイクロパンチョップ、田中清代、つつみりえ、福井岳郎(敬称略)。
♪おばけの植村昌之のウクレレ好きが高じて、とうとう素敵な祭宴が開かれました。今回のライブの特徴は、普段はギターやチャランゴなどで弾き語りをしている人たち(もしくはウクレレでひと味違うことをやろうとしている人たち)に、ウクレレによる表現に挑戦してもらおうというもの。出演者は普段と違う雰囲気に緊張したり、楽しんだり、していたようです。
下記の「ウクレレ・コンテスト」で優勝した今泉孝文さんは1曲めに「ウクレレを弾かない」曲を演奏しました。インド音楽が大好きな今泉さんは、ウクレレを叩いて歌わせるという演奏法を披露してくれたのでした。そのあとオリジナルのインストを演奏。
植村昌之くんは、「ウクレレは歌う」という曲を歌いました。ある意味正統派と思う彼の曲は心にしみました。彼はウクレレの音の悲しさをよく表現する人だなあと思います。
つつみりえさんは、とても澄んだ声の持ち主。ライブが1月31日でしたが、ちょうど「1月31日」という曲を持っていて、それを歌ってくれました。チャランゴの音とは違って、素朴な味わいに。
あごの正体は今回は二人ユニットでした。ウクレレの音をラインで出して、うたと演奏全体にディレイをかけ、会場は夢の中のような世界に。大野慎矢さんのオリジナルの詞が素敵でした。
田中清代は、試作ブルース曲「真夜中のブルース」と、W.C.ハンディの「フレンドレス・ブルース」、フォーク風の「毎日が日曜日」を歌って、なぜか笑いを誘う場面が多し。低めのキーで歌って気持ちがよかったです。
さいころさんは、普段ギターで歌っている曲と、その日のために作った曲とを演奏されましたが、どちらも昔から歌ってたようななじみようで、さすが〜と思いました。ユーモラスな曲とウクレレの雰囲気がマッチ。
青木孝夫さんは、名曲「迷い犬の歌」を発表。歌とウクレレとの掛け合いで進んで行く切なくて面白い歌。今では街角で迷い犬の張り紙を見かけるたびに心の中で歌っているとか…。
スッパマイクロパンチョップさんは、スキャッティングのような歌い方なんだけど、曲の作りが形式にとらわれない感じで、とても新鮮でした。初めて聞く人は即興音楽的と感じると思うけれど、じつは練りに練った(?)内容の濃い歌なのでは、と思う。
福井岳郎さんは「ティンクナ」というバンドでチャランゴを弾いている方ですが(ボーカルもかな)、今回は北海道からの参加。声に厚みがあって、暖かい感じの歌でした。ウクレレの弾きこなし方も貫禄があり。ティンクナのCDのジャケットが市居みかちゃんのイラスト。
10月26日に、「第2回フェイマス・ウクレレコンテスト」に参加しました。おばけは1曲だけ演奏しました。
地下生活者の夜というのは、もう20年も続いている企画ライブで、バンド「たま」の人たちも加わって立ち上げたということです。当日もずっと見にきているお客さんや仲間たちがちらほら。仲間同士の対バンだったので、演奏順をご紹介すると、1、植村昌之 2、おばけ 3、くぼあつこ でした。植村君から教えてもらって以来、その文学的でポジティブな詞と、独特のうたのファンになったくぼさんと一緒のライブでとても楽しく演奏できました。ライブの最後には、くぼさんとチャランゴのつつみりえさん、植村昌之とおばけメンバー、みんなで2曲演奏(くぼさんの「一日」とおばけの「草原の唄」)を合奏。後で録音をききましたがなかなか美しくできました。特に、くぼさんのキーボード、つつみさんのチャランゴが「草原の唄」にミステリアスな雰囲気を加えてくれました。
曲目 1.手ぶらで行こう 2.風の強い日 3.ねりがらしの黄色ちゃん 4.ジャパニーズ・ルンバ 5.言葉のスープ 6.おしいれのうた 7.草原の唄
1.リハーサル中 2.オレンジの帽子の植村君。マンドリンを弾いてます 3.植村、山本、田中で描いた垂れ幕 4.おばけの演奏 5.くぼあつこさんと合奏
7/2 at PENGUIN HOUSE レポート初めて演奏させてもらったPENGUIN HOUSEはとても良い雰囲気のお店です。古き良きアメリカ…という感じのポスターが配置された木の壁、ステージ正面にはペンギンの小さなモノクロの絵が一枚かかっています。久しぶり(実に1年1か月ぶり)のライブだったこともあって、おばけライブはすごい盛況ぶりでした。ゲストミュージシャンに茂田彩子さんを迎え、演奏したのは9曲。今までの曲に加えて新曲は2曲。「言葉のスープ」と「おしいれの歌」でした。また演奏開始直前には山本海によるMIDI曲「世界遊園地」を流し、ちょっと不思議な空気を醸しながらのスタート。曲はそれぞれ、歌詞と曲想を大切に演奏しました。もうちょっとゆったりした空気を出したかったのですが、どちらかというと元気な演奏。前後に演奏された「粗茶」さんと「チハヤトシバタ」さんの演奏もそれぞれに面白く、良い夜でした。
曲目 1.手ぶらで行こう 2.風の強い日 3.ジャパニーズ・ルンバ 4.ねりがらしの黄色ちゃん 5.換気扇 6.草原の唄 7.言葉のスープ 8.おしいれの歌 9.きいちゃんとピッピの歌 <<ライブの様子>>
1.ペンギンハウス入り口付近から。 2.中央が田中、左がゲストの茂田さん。オレンジの帽子が植村君。 3.手作りおばけステッカー。好評でした。

【 38】 おばけ煙突

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[引用サイト]  http://www.adachi.ne.jp/users/senjusin/obakeentotu.htm

山手線と中央線と東武線と京成線とあらわれ 下町のシンボルとして 愛された"おばけ"らしい
4本、3本、2本、1本・・・・・・・旧日光街道の西約1KM 千住桜木と云うところにいたらしい
この代名詞、且つ、スター的存在であるオバケエントツは、千住の目標でもあり、また掲示板でもある。東京タワーや、デパートの屋上から四方を見渡すと、必ず、オバケエントツが見える。その時は、ああ、あそこが僕達のまちかと、なつかしいいというか、なんともいえない感じが、こみあげてくる。
オバケエントツは、千住のタワーだ。ぼく達千住のものには、このオバケエントツがぼく達の町にあるのだという誇りをもっている。それもただデッカイかららという意味ではなく、東京都で一番古い発電所、戦前、外国人の設計技師が建てたので、空襲の時にオバケエントツだけは、爆撃しなかったという うわさがあったとか、また、そのほかいろいろな話題を持っているからだ。
いや、この オバケエントツは、東京都全体で誇っていいものだ。それも 日本全国に、いや世界に・・・・
ぼく達は、オバケエントツに、この外のことで特にお世話になている。その中の一つは、まず、ぼく達の心の支えになってくれるということだ。あの夏の恐ろしい台風、そして雷、このとき程、ぼく達がハラハラすることはない。いつ川が氾濫しやしないか、いつ家に落雷しやしまいかと一晩中このことを考えると、まるで気が狂いそうになる。しかし、そのとき、オバケエントツのことを思い出し、マブタを閉じてその雄大スケールを再現すると、ぼく達は 自然と、自分の家、いや千住の町全体を台風から、雷やから守ってくれているのだという心強い気持ちになる。
ハラハラしていた胸もおちついて晴れ晴れとなり、その上笑いまで浮かんでくるのだ。この外にも学校の夏休み、冬休みの図画の宿題というと、必ずオバケエントツをかいてくる。僕たちは生まれて15年、オバケエントツをかき続けてきたといっても言い過ぎではないだろう。
このようにオバケエントツの功績は大きい。これは火力発電所というより、ぼく達千住の人のシンボルトいった方がピッタリするぐらいだ。しかし、この千住のシンボル・オバケエントツも近いうちにその長い生涯を閉じる。ぼく達はこのことを喜んでいいのか、悲しんでいいのか迷う。オバケエントツがなくなっても、この発電所の設備が新しくなり文化、工業の発達の面から見ると、このオバケエントツがなくなっても、発電所の設備が改良され、もっと新しい機械で沢山の電気が作り出せるようになるなら、喜ばしいことだが、今まで千住のシンボルとして親しまれてきたオバケエントツの名を、もう聞けなくなるかと思おうと寂しい。最後に僕は、オバケエントツ君。本当に長い間有難うと心からお礼をいいたい.
@建設当初、時々思い出したように煙を吐く煙突をみて、いつしか近所の人々がつけたのが”おばけ煙突”のそもそもの由来だといわれる。
A見る角度によって、1本から4本まで見えることから、”おばけ煙突”の名が広まり「煙突の見える場所」という映画にも登場して全国に紹介された。
当初は、電気のたりない時の予備的な火力でしたが、戦時中から常時発電する火力発電所となり、火力発電を行うと共に系統電圧の調整にも重要な役割を果たす。昭和28年11月、長年にわたる酷使と施設の老朽化および炭質低下等により、認可出力の確保が困難になったため、ボイラーの1缶を重油専焼に改造。その後豊洲埠頭に大きな火力発電所が作られとりこわされました
最初の計画では、浅草発電所を設備更新する予定でしたが、関東大震災後、送電系統と距離はあるが石炭運搬は良い、又大正期まで閉疎な地であったということの理由があったためといわれています
昭和39年(1964年)に廃止。設備撤去後、東京電力足立支社の「千住資材センター」(煙突跡には 黄色のマークがあります)北千住変電所・千住グランド等になりました。煙突の保存要請があったものの、管理等の問題で実現しませんでした。
しかし、煙突の半円形の鋼板(外経約6.4m)一枚は、足立区立本宿小学校のすべり台に利用され残っています。その内側には「四本煙突記念」のプレート」1965年昭和40年1月があります。
4本の煙突が、右図のように、その中心を結んだ線が菱形をしており、短い方の中心距離が約11mで、煙突の直径が約6mなので、@の方向から見ると、4本に重なって太い1本の煙突に見えるわけです。
かつて、おばけ煙突があった地に建設中だった東京電力足立支社(松坂晴伸支社長)は20日、新社屋竣工披露式典を催した。鈴木恒年区長をはじめ、地元桜木町会長など多数の来賓が招かれた。建物は、地上6階、地下1階、延べ床面積7745・35平方メートル。全体がエコ・ビルディング仕様になっていて、畜熱式セントラル空調システム、省エネ照明、太陽光発電等が設備されている。1階には、70人収容の他目的ホールも設置され地域の人たちが利用できる。6月26日より営業
※足立支社は、昭和2年に東京電灯千住出張所として発足、以来73年間地域に貢献してきた。おばけ煙突は、大正15年に建立され、昭和39年に取り壊されるまで「見る位置によって本数が変わる4本煙突」として長く足立の名所として親しまれた。
★2007年3月 驚くべき情報が 千住物語へやってきました 紹介いたします
お化け煙突のコーナー拝見しました。綺麗ではありませんが、わたしの撮った煙突の写真を送ります。
千住の人たちが お化け煙突の存在 また解体をどう思っていらしていたのかはわかりません
この 笠井君の作文が その表現として もっとも いいのではないかと掲載させていただいたのですが
なんと 昭和の時代から40年もたった 平成19年 (2007)その笠井さまから お便りをいただきました
「おばけ煙突」のページ懐かしくて目を皿のようにして読ませていただきました。すると、何てことでしょう。私が中学生の時に応募した作文が掲載されているではありませんか。
当時私は足立区立第3中学校(今は閉校されてありません)の3年生でした。オバケエントツが操業終了するに当たって、距離的に一番近い私達の学校が東電に指定されて、オバケエントツにまつわる感想作文を書くことになったと記憶しています。全校生徒が応募し、私は確か何位かに入賞して副賞に読書用蛍光スタンドをもらったことを鮮明に覚えています。43年前の作文に突如出会ったとき、一瞬息も出来ないくらいの衝撃でした。何度も読み返すうちに当時の風景や町並み、同級生の顔もおぼろげながらよみがえって、しばし昔の余韻に浸っておりました。
私の青春をよみがえらせてくださりお礼の言葉もありません。
一人息子も3中出身です。この4月から新社会人として就職します。早速息子にこの作文を読ませるつもりです。
現在私は中央大学の交友会組織の足立区支部のホームページ運営を任されています。貴方のページをぜひ私どものページにリンクさせていただきたくお願い申し上げます
明治19年、3千本の苗木を植栽。後、桜の名所となる。千住から江北〜荒川提の五色桜は米国ワシントンに贈植。明治の末度重なる大洪水に、大正の初め荒川放水路開削が始まり、名勝桜土手(熊谷提は分断 大正13年特別天然記念物に指定。昭和にかけ地名のみを残し絶えて久しい。近年ワシントンの桜は里帰り桜となりまぼろしの桜を復活した土手に桜が植えられ、春は花が咲き 人がごったがえし、なじみぶかい土手でした
どこかへでかけての帰り道、電車の窓から四本煙突が見え始めると、なぜかわが土地に帰ってきたように、ほっとしたもんですよ・・・・
映画「煙突の見える場所」で有名になった東京電力千住火力発電所の四本煙突は、大正15年1月米国から機械を買い入れ発電を開始、当時の金額で1500万円、ボイラー用として建設。発電量77500KW。日本最大の火力発電所の象徴であった。鋼板製で内部は、耐火煉瓦巻 高さ83.82m 内径項部4.57m 底部5.44m 外形項部4.81m 底部6.40m 重量 鋼板1.66t 煉瓦456t 計622t
煙突の位置は、対角線の長さ一方は62.2m 片方が10.5mと極端に押しつぶした菱形に配置されていたため 見る場所によって1本にも2本にもさらに3本にも見えるところから お化け煙突と呼ばれるようになり 長いあいだ下町の人々に親しまれ足立区民とくに千住に住む人にとって四季折々周辺の風景の変化の中に不思議な調和したたたずまいがあった。
建築以来丗有余年にかたり点をつく 巨大な名物施設が微動の昭和史に残した偉業は計りしれない時は移り昭和丗九年千住の空から姿は消え今1部分が、元宿小学校の遊具として保存されている
今の千寿第二小学校正門前にあたるところが、掃部提にあたります。ここは明治の終わりごろに桜をうえ桜土手と呼ばれるようになったところです。
牛田駅の近くから西新井橋の手前までの、高さ4m、長さ約2KMの土手です、現在の荒川の土手ができるまでは、土手といえば、この通りしかなかったので、千寿第二小学校は「土手の学校」と呼ばれていました。
春になると、土手のあちこちに、丸太を組み合わせ、よしずばりの茶店ができ、土手には、床がはられ、床下は、子供達のよい遊び場でした。茶店では、サイダーや、おだんご、ゆで玉子、のりまき、、いなりずしなどをうっていて、赤い前掛け姿の、お姉さん達が、「お休みなさいませ」などと、大声で呼びたてていました。子供達は、土手で 「すもう」をとったりすみれ、タンポポをつみながら遊んでいました
江北橋あたりまでつづき、春の花見、夏の夕涼み、秋の月見、など人々には、なじみぶかい土手でした。
関東大震災、東京大空襲、復興 大きな流れの中 およそ90年 元気な子ども達の声が校舎いっぱいに
児童数の減小により 東京都足立区立千寿第二小学校の名がピリオドを告げることになりました。